部屋を片付けると物をなくす話

世の中には二種類の人間がいる。自分の部屋を片付けたほうがいい人間とそうでない人間だ。

自分の場合、完全に後者である。

 

自分の部屋は汚い。

「汚い」という判断は難しく、昔基準がよく分からなかったときは「自分の部屋が汚いかどうかは基準がわからないので判断できない。少なくとも研究所のクリーンルームよりは汚くて、ごみ収集車のごみが入ってる部分よりは綺麗だろう」としか答えられなかったのだが、「部屋が汚い」を「他人に部屋の雑然さを知られたくないという気持ちが起こる」という意味にするなら、自分の部屋は間違いなく汚い。

人を部屋に呼ぶ機会があった時、自分が納得する程度に部屋を片付けるのだが、大抵その後は何か物をなくして四苦八苦している。整頓のお陰で物の閲覧性は増したはずなのになぜ物をなくす確率が上がるのか不思議だったのだが、最近わかった。片付けると場の時系列がめちゃくちゃになるのだ。

 

部屋を片付けないでいるとき、物の置かれる条件はシンプルだ。最近使った物が目の届く範囲、すなわち部屋の表面に来る。

例えば3ヶ月前に読んだ本を部屋の中から探そうと思ったとする。3ヶ月前の本は最近使っているものの間に埋もれているはずなので、部屋の表面を探す必要はない。1年以上手を付けていない箇所も探す必要はない。つまり、部屋を片付けず、「最近使ったものが部屋の表面にある」というルールで統一されていれば、部屋の中の3ヶ月前に触れた形跡のある箇所だけ探せば良いことになる。

部屋を片付けるとどうなるか。「部屋を片付ける」とは、不用品を捨てるということの他に「同ジャンルのものを同じ箇所にまとめる」ことが含まれるが、これをしてしまうと最近使ったものも3ヶ月前に使ったものも同じく部屋の表面に出てきてしまう。そしていざ物を探そうとしたとき、「確実に探し物が存在しない箇所」のアタリが付けられない。「最近使ったものが部屋の表面にあるというルール」が崩れているので、部屋の全域を探さなくてはならないのだ。

 

物を保存した箇所をしっかりと記憶できる人は部屋を片付けたほうが閲覧性が上がり物をなくす確率が低くなるだろう。しかし自分のように物を使用したことしか記憶できない人間の場合、あえて部屋を片付けないほうが物を探しやすくなるのである。

インターネットでくらい無性でいたい

皆性を意識しすぎじゃないか。

自分にとっての性は、人差し指より薬指のが長いかどうかくらいの重要性しか持たない。強いて言えば、自分は下半身の筋肉が多めな人を好きになる傾向があるので、筋肉が付きにくい女よりは天然ドーピングのテストステロンが多く分泌されている男を好きになる傾向があるけれども、別に自分にとって美しければ男でも女でもどちらでもいい。性の区別が実際に必要となるのはセックスの時だけだが、自分は特に実際のセックスには執着していないので関係がない。

 

大学3年くらいの頃、「なんで皆そんなに性を意識するんだ、性別はっきりしない人もいるし人間そんな変わらんやろ」と思って改めて周りを見渡したら、男女の区別が5秒以内につかない人は1%もいなくて非常に驚いたことがある。体感では60%くらいな気がしていた。

 

自分は未だに自分のセクシャリティすらわからない。人類は好きなのであえて当てはめればパンセクシャルなのだろうけど、重度の太ももフェチで、以前食用カエルの太ももに若干のトキメキを覚えたことがあるので人類限定かどうかも怪しい。
以前「猫を愛でるときにオスかメスかあまり気にしないように、自分は人に対しても性をあまり意識しないんだ」と話したら「動物と人間が同じ扱いなの…?」と若干気分を害したような顔で見られたことがあり、動物を例えにするとそういう概念(人間と畜生が同じだと捉えている)も付随してくるのか、難しいなあと思った覚えがある。

 

LGBTQの本も読んだが、「無性」を主張していても性器を切り落としてどちらでもなくした人や男性と女性を日によって変えるだけの人(服や髪型を日によって男性的なものや女性的なものに変える人)などばかりで、「どちらにせよ性に固執してるやん…」ってなった。まあそもそもセクシャリティについて考えざるを得ない人は性を重要視してる人なので、「積極的無性」は本に登場するけれども、自分のような「消極的無性」は出ないのだろうなとは理解できる。実際日常生活で困らないので主張する必要もない。

 

自分はインターネットでは意図的に自分がどちらの性であるかという証拠を残していない(会ったことがある人にはバレているし、各自で推測されてはいるだろうが)。性別が知られると、自分の知らない概念(男性的とか女性的とか)が自動で付随してくるようになるので、意図が理解しにくくなるのだ。たまに性別限定の話題(レディースデーとかトイレとか)に加わりたくなるけども、無性でいられる方がメリットが大きいと思って加わっていない。現実では叶わないから、せめてインターネットではこのままずっと無性でいたい。

アウトプットが嫌い

いくつか書きたいことがあったのだが、どうしても文章がまとまらないので、書きたいものではなく書けることを書くことにした。というわけで今日はアウトプットが嫌すぎることを書こうと思う。


適当な人が適当に書いた適当なブログが結構面白かったりするので、自分も適当に何かを生み出してみようとブログを始めたのだけど、書きたいことがあってもそこまで辿り着くのがしんどい。頭の中には理路整然としたコースがあるように思うのに、実際に書こうとすると無限に文章校正が始まり結局出来上がらない。書きたいテーマだとそれを表現したいという欲が強くなってこれは適切じゃないなーとなり作業が膨大に増え無理になる。


アウトプットが苦手すぎてさっき「アウトプットがきら〜いアウトプットがきら〜いアウトプットがきら〜いめっちゃつらいわ〜」とその場で思いついたメロディに乗せて踊った。もっと楽にアウトプットしたい。これが実存の重みかー!重すぎる!という感じ。まあでもこの文章はわりと楽にアウトプット出来たので、まず書けるものから初めて経験を積むのがいいのかな。
でも文章を書くのが好きという人の気持ちが前は全然わからなかったけど今はちょこっとわかるようになった。実存増えるの楽しい。でもアウトプットは嫌い。もっとするっと出てくれ〜!

「実存」についてしっくりくる定義を見つけ幸福の極致に飛んだ話

2018/2/20の早朝、自分は「実存(実際に存在する)」とは「決まった反応に対して決まった反応を返す可能性が極めて高いことだ」とわかった。

壁を触ると反発力を感じるのは壁が実存しているから。身体が実存していてこころが実存していないと言われるのは、身体は視覚・聴覚・触覚・場合によっては嗅覚や味覚なども使って反応を得ることができるが、こころは本人の脳にしか実存せずこの世には実存しないから。

定義が決まると、自分や自分の周りにあるすべての実存が尊く貴重で素晴らしいものに見え、「これが実存かあ!」と壁などをベタベタ触りながら嬉しくなりすぎてゲラゲラと笑っていた。

 

昔から、概念に対して外部から判別できる方法で定義しないと上手く使えない性格だった。

例えば小学生くらいの頃、「友達」という言葉の定義が自分の中ではっきりしなくて、その言葉を使えなかった。自分には友達、もしくは友達という言葉に付随する他人への信頼度に対する感覚がなかったので感覚的に捉えることができなかったためである。その後「仕事や義務以外でプライベートのことを話し合う人」という定義を見つけ、躊躇なく使うことができるようになった。

そのような特性を持つ人間が実存を理解してしまうとどうなるかというと、「存在」という非常に普遍的なワードが正確に使えるという喜びが世界のあらゆる方向から押し寄せてくる。わからないものを使うというのは不安が生じるが、わかるものについては不安は生じないからである。様々なモノに実存の手応えを感じると、実存がこの場にあるという嬉しさ、貴重さに愛おしさが生じて止まらなくなった。何と言ったらいいかわからないが、アハ体験の非常に強烈なバージョンが来たという感覚になった。

次に、「実存」という言葉に付随する様々な概念の定義について定義可能になることに歓喜した。世界の様々な概念が了解可能になることに、喜びを禁じ得なかった。

 

哲学者が発狂しがちな理由もよく分かった。概念を解くことをライフワークにしていると、実際それが解けてしまったとき、適用する範囲が広すぎて世界のあらゆる方向から快が押し寄せてくるのだ。自分は基本的に哲学者というものが嫌いだが(彼らの論説は大抵現実をこじらせたり簡単に言えるものを難しく言ってただけだったりする気がするからだ)、気持ちはよく分かるようになった。できればあまり普遍的なテーマについて考えないほうが正常に幸せになれるとは思う。

 

サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンはマロニエの根の実存そのものについて吐き気を催している。自分は「実存」の定義を見つけ「実存するものの実存そのもの」が愛おしく貴重で喜ばしいと感じていたが、これは実存の定義そのものがもたらす喜びではなく、単にこれをきっかけとして起こった躁発作のようなものなのかもしれない。事実、医者にこのことを話したら「それが楽しいんだね…?」と怪訝な顔をされ、躁病の薬であるデパケンRが出た。ものを触るだけで嬉しすぎて笑ってしまうのは実際完全に狂人なので、医者は正しい判断を下したと思う。最近特に思うが、ひとは気が狂っても生き続けることができるし、死なない限り人生は続くのだ。