「実存」についてしっくりくる定義を見つけ幸福の極致に飛んだ話

2018/2/20の早朝、自分は「実存(実際に存在する)」とは「決まった反応に対して決まった反応を返す可能性が極めて高いことだ」とわかった。

壁を触ると反発力を感じるのは壁が実存しているから。身体が実存していてこころが実存していないと言われるのは、身体は視覚・聴覚・触覚・場合によっては嗅覚や味覚なども使って反応を得ることができるが、こころは本人の脳にしか実存せずこの世には実存しないから。

定義が決まると、自分や自分の周りにあるすべての実存が尊く貴重で素晴らしいものに見え、「これが実存かあ!」と壁などをベタベタ触りながら嬉しくなりすぎてゲラゲラと笑っていた。

 

昔から、概念に対して外部から判別できる方法で定義しないと上手く使えない性格だった。

例えば小学生くらいの頃、「友達」という言葉の定義が自分の中ではっきりしなくて、その言葉を使えなかった。自分には友達、もしくは友達という言葉に付随する他人への信頼度に対する感覚がなかったので感覚的に捉えることができなかったためである。その後「仕事や義務以外でプライベートのことを話し合う人」という定義を見つけ、躊躇なく使うことができるようになった。

そのような特性を持つ人間が実存を理解してしまうとどうなるかというと、「存在」という非常に普遍的なワードが正確に使えるという喜びが世界のあらゆる方向から押し寄せてくる。わからないものを使うというのは不安が生じるが、わかるものについては不安は生じないからである。様々なモノに実存の手応えを感じると、実存がこの場にあるという嬉しさ、貴重さに愛おしさが生じて止まらなくなった。何と言ったらいいかわからないが、アハ体験の非常に強烈なバージョンが来たという感覚になった。

次に、「実存」という言葉に付随する様々な概念の定義について定義可能になることに歓喜した。世界の様々な概念が了解可能になることに、喜びを禁じ得なかった。

 

哲学者が発狂しがちな理由もよく分かった。概念を解くことをライフワークにしていると、実際それが解けてしまったとき、適用する範囲が広すぎて世界のあらゆる方向から快が押し寄せてくるのだ。自分は基本的に哲学者というものが嫌いだが(彼らの論説は大抵現実をこじらせたり簡単に言えるものを難しく言ってただけだったりする気がするからだ)、気持ちはよく分かるようになった。できればあまり普遍的なテーマについて考えないほうが正常に幸せになれるとは思う。

 

サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンはマロニエの根の実存そのものについて吐き気を催している。自分は「実存」の定義を見つけ「実存するものの実存そのもの」が愛おしく貴重で喜ばしいと感じていたが、これは実存の定義そのものがもたらす喜びではなく、単にこれをきっかけとして起こった躁発作のようなものなのかもしれない。事実、医者にこのことを話したら「それが楽しいんだね…?」と怪訝な顔をされ、躁病の薬であるデパケンRが出た。ものを触るだけで嬉しすぎて笑ってしまうのは実際完全に狂人なので、医者は正しい判断を下したと思う。最近特に思うが、ひとは気が狂っても生き続けることができるし、死なない限り人生は続くのだ。